かれこれ40年以上も浅田さんの絵画を観てきたけれど、一貫していることがある。それは、大きくないということ。であるから、描かれた象形はすんなり視覚に納まる。「大きい絵は描かないの?」と尋ねてみても、いやあ、大きいと面倒だし、絵の具が要るし……などとはぐらかされるのだが、すこしだけ琴線にふれたような表情をする。せいぜい中腰で腕を伸ばせば届く範囲で絵筆を走らせるのは、最終的に観者が目にする光景を、作者自身が発掘するための方法論である。白紙のキャンバスや紙に向き合ったときに、何らかのビジョンはあるかもしれないが、浅田さんの絵筆が向かう先は、本人も知らない。そしてテクスチャーが生まれ、何か“絵として成立しそうな”気配がやってくる。劇的なのは次の瞬間の《止め》の極意。最後の一筆で、決まった!つまり、絵画としかいえない何かが成立する瞬間。それが浅田邦博の奥義だろう。この場にたゆたっている何かは、象形の認識とそこからすり抜けようとする揺らぎなのだから、やはり視界に納まっている必要がある。この度の個展では、その《止め》の奥義を名付けると、〈獣の手〉〈キリン〉〈靴〉……などと作者は嘯くのだけれど。このうちだと、私は〈靴〉が好きだ。なぜなら、作者に言われるまでそうは見えなかったし、何とも味わい深い左官師の塗り壁のような地の上に、白と青の一筆だけで、潔く絵画を成立させているミニマリズムゆえである。私はいつもこの極限に作者を追い込もうと思うのだが、ひょろりと躱され、彼は〈飛行機〉や〈はしご車〉や〈宇宙人がいないいないバー〉をしている絵を描き続けるだろう。稀に、大芸術(メジャーアート)の域に達する奥義も生まれる。
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